昭和54年8月9日号より

 

 

焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹

猫の額のような一角で熾烈な闘いをくりひろげる同業300店のまとめ役!

 

秋葉原に電気商がポツリポツリと集まり始めたのは大正末〜昭和初期。しばらくは鳴かず飛ばずの状態が続く。が、 二・ニ六事件(昭和11)でラジオの価値が認識され、飛ぶような売行き。そして戦後、焼跡で再スタートするや、世は“電気の時代”−。その飛躍発展ぶりを、体験を通して語ってもらおう。

 

秋葉原といえば、いまや世界の『アキハバラ』だそうである。外人観光客は浅草・銀座に加えて『アキハバラ散歩』を東京観光コースに入れるのを忘れない。あるいは国内にしても、土・日ともなれば関東一円はもとより関西方面からも新幹線を利用して買い物に来る、などと言う話も聞く。

テレビや冷蔵庫などの家電製品からオーディオ製品、そしてあらゆる電気機器のパーツ(部品)が余すことなく並び、しかも超安値で手に入る―いささか広告文めくけれども、これが人口に膾炙した“秋葉原電気街”のイメージだ。

猫の額のような土地に密集する電気店。かつて秋葉原を訪れたオランダの電気商グループは、『これでよく共倒れしないものだ!』と目を丸くしたそうだが、電気街に軒を並べる店舗数は、大小とりまぜて約300。これは一社で数店舗を持つ所もあるから、会社としては約200社という。

で、秋葉原全体の年間売り上げは約1300億円。これを一日当りに単純計算すると、ほぼ4億円に近い。つまり、秋葉原は毎日4億の札束が舞う町というわけである。ちなみに、従業員一人当たりの年間売り上げが、かるく5000万円を超える、などという空恐ろしい店まであるそうな。

さて秋葉原を取材で訪れた日も、歩行者天国には人があふれ、各店舗とも親子連れ・若いカップルなどでごった返す。なかには、店員相手にとくとくとオーディオ知識を開陳するヤングもめずらしくない。『いやあ、最近の若い人の中には専門家顔負けのマニアがいっぱいいるよ』

と、うすくなった頭に手をやりながら苦笑いするのは、電気街の一角に『志村無線電機』を構える志村義雄、71才である。その肩書きは、『秋葉原電気街』会長。これは『秋葉原駅前電気商連合会』と『秋葉原電気専門店会』という二団体から形成されているもので、いってみれば、秋葉原の各店舗のまとめ役であり、スポークスマン。つまり《世界の秋葉原の顔》というわけである。ある業界通は志村を評してこう語る。

『電気街には個性の強い創業社長が目白押しで、それをまとめていくのは並大抵の事ではないと思いますよ。ま、志村さんだから出来ることでね。あの人は親分肌の所があって、人の面倒をよくみるから、会長としてはうってつけの人物かもしれませんね。顔も広いし、政治的なコネクションも相当なものでしょう。』

志村は会長職にあることほぼ10年。この『秋葉原電気街』という団体の主要な仕事は秋葉原全体の宣伝と、催物の企画と実行だ。年間の宣伝費が2億円。年2回中元と歳末大売出し一大キャンペーン、歩行者天国を利用した催物など、その責は重い。

イメージアップに大きな功績

先の業界通氏がつづける。

『商人と言うのは、自分の店の商売だけを考えるきらいがあって、なかなか全体としてはまとまりにくいんですよ。秋葉原の電気街もかつてはバラバラで、それをうまくまとめて、秋葉原全体として宣伝戦を展開したりして、秋葉原をイメージアップした功績は、ま、あまり目立たないかもしれないけど、大きいですよ』といっても志村はグイグイ会員を引っぱっていく会長という趣でもない。まして強引、辣腕という印象もうけない。風貌も71歳の好々爺であり、口調もたんたんと穏やかである。

『会長やってもう10年になるかな。もうそろそろ引退だと思うんだけど、どうなることやら。ま、残った命は秋葉原に使うさ』いささか秋葉原の“静かなる重石”といったところか。会長職は、舞台の黒子、といいたげである。元来の世話好きがそうさせるらしい。マサコ夫人(69才)が語る。『昔からウチの人は、人の面倒見見がよくて、いまもいくつ団体の役員をやってるんでしょうかね。もう私にはわからないくらいですよ。少しは自分の商売を考えたら、とはいうんですが、聞きやしませんよ私のいうことなんか(笑)。一見おとなしそうに見えますけど、強情でガンコな人ですから』ガンコと言えば、こんな話がある。

志村はよく“秋葉原の顔”としてマスコミの取材をうける。先日もNHKの秋葉原特集でインタビューをうけた。そのとき志村は、『なぜ秋葉原は安いのか?』という質問にこう答えた。『秋葉原は大量現金一括仕入れで、流通経費もはぶけるから平均2割、旧型の製品だと3割は安くなるかな』で、この言葉に全国の電気商の団体から 抗議が志村のもとに殺到した。安売りを奨励するようなことをいっては困る、一筆、詫状を書け、と。それでなくても、同業者にとって秋葉原は目の上のタンコブだから、その抗議も無理からぬこと。おまけに、志村は全国の電気商のほうの団体の役員でもあるから、なおのことであった。が、志村はガンとして譲らなかったそうである。『会長は、以外に一徹なところがあるんですよ。その抗議をうけたときも、“あのときオレは秋葉原の代表としてしゃべった。それも本当の事を言ったのだ”といって押し通したようです。自分で正論と思った事は曲げないですね。いつもは腰の低い穏やかな人なんですがね』とは、ある秋葉原の店主の弁。

ガレキの中から再スタート!

さて、志村個人の歩みは秋葉原五十年の歴史にピタリと一致する。秋葉原電気街の発祥から今日の発展ぶりまでの、裏と表を知りつくしている。

電気街の”原形”がポツリポツリと産声をあげはじめたのが大正末から昭和の初期。引き金となったのはNHKのラジオ放送のスタートであった。

その頃、山梨の片田舎からひとりの「ラジオ好きの少年」は上京する。そして、いろんなアルバイトをやりながら電気学校に通い、この少年がラジオの製作と販売(卸専門)の「志村商会」を台東区下谷に設立したのが昭和四年。上京時、十六歳だった少年は、わずか二十歳で一国一城の主になった。「親類に東京電力の人がいて、これからは電気の時代というのが、ま、この商売に入る動機といえば動機かな。二十歳で店を持ったけど、もう部下が二十人くらいはいたね。その陣頭指揮に立って、ラジオの組み立てを自分でもやったけど、当時のラジオというのは簡単なもんで、鳴らなくなったら横っ腹でもひっぱたけばいいというシロモノだったよ(笑)。今どきのICだのトランジスタだのといわれても、こちとらはもうお手上げだね、そっちは店の若いのにまかせてこっちは怒鳴るだけだよ、ハハハハ・・・・・。」

が、昭和初期のラジオといえば、まだ一般には馴染みのないもの。「なんか箱の中から人間の声が出るそうな」といったあんばいである。「一日に七十台くらいは売ったけど、まるっきり売れなくて在庫がたまって仕方がなかったよ。」

ところが爆発的に売れる日がやってきた。それが、昭和十一年の二・二六事件のとき、反乱軍の動向、天皇の意向を知ろうと、店にはラジオを買い求める客でテンヤワンヤの大騒動だったという。「ラジオが一般に定着するようになったのは、この事件からですね。それからはラジオの利用価値がわかり、順調に売れるようになりましたからね」

いらい順調満帆の日が続き、部下にもそれぞれ大阪、横浜、新宿などに店をもたせるという具合。が、これも戦争で一挙に瓦解。志村が出征していた中国から帰還したのが昭和二十一年。店も工場も焼け果てて跡形もなかった。

で、工場の土地を売って、現在の電気街に近い末広町に店を再開したのが二十二年。振り返って、志村は「この時期がいちばんつらかった」という。「まず資金集めが大変だったね。ただ、もう製作はもうやめて卸専門にしたんだが、昔からの知り合いのメーカーが品物を都合してくれて、それに馴染みのお客さんがまたよく買いに来てくれて、これはありがたかったね」

戦争後すぐの神田、秋葉原といえば、電気街といっても、露天の小売と、焼け跡に間に合わせに建てられたバラックの問屋。

ミカン箱に板をわたし、その上に、真空管、コンデンサー、電球、ソケット、コイル、スピーカーなどが雑然と並んでいたものだ。

そして、今の電気街のメインストリートには、「志村無線」をはじめ、今では世界的に名高いラオックス、ヤマギワなどの前身がポツリポツリと焼け野原に顔を出しはじめた。

で、現在の秋葉原の軒並みの”原形”ができたのは、昭和二十三年。GHQの露天廃止命令で、神田(須田町)一帯の”青空市場”が続々と秋葉原駅前に”集結”したというわけである。

この時期、こんなエピソードが残っている。業界に詳しい「ラジオ商業新聞」の西村匡記者が語る。「当時、米軍の兵士が真空管を大量に秋葉原に持ってきて店と”闇取引”したらしいですよ。米軍用の真空管は人気を呼んで、一般のより二,三倍の値段で取引されたようです。で、あるとき、朝鮮に向かうアメリカの空母のレーダーが故障。調べてみると、真空管がごっそり抜かれて、つまり、兵士が秋葉原でさばいたというわけです。」

今から考えると笑い話だろうが、戦後の混乱期、秋葉原の”揺藍時代”を象徴させるような逸話である。

スーパーの進出も受けて立つ

さて、その後の歩みについては詳しく触れるスペースがないが、なんといっても今日の姿に秋葉原を”底上げ”させたのは”三種の神器”(てれび、冷蔵庫、洗濯機)時代であろう。

時は昭和三十年代。とりわけ三十四年の皇太子御成婚は”テレビ黄金時代”の幕開けを告げ、三十九年のオリンピックでは、湯水のように札束が電気街に流れ込んだそうである。

このオリンピックの頃から、電気街も様相を一変。ミニデパートを思わせるような大型店が続々と現れ、専門店化がすすみ、さらに、”脱秋葉原”をみせる店も出始め、アメリカに支店をもつというところもある。

が、志村が末広町の店を処分していまのメインストリートの真ん中にビルを建てたのは昭和三十五年と、早い。「いまの場所を買ったのは三十一年で、バラックだったのをすぐにビルにしようと考えて、完成したのが三十五年。まだ平屋の店が多くて、六階建てのビルというのは珍しかったね。建築費も三千五百万と、今から考えるとウソみたいな値段だったね。」

これなど先見の明というべきだろう。で、現在、メインストリートをはさんで本店の目の前に「シムラプラザ」(地下一階、地上三階)を四十八年にオープン。これは、電気街でも”舶来家電専門店”としてユニークさを発揮している。

支店はこれ一つだが、「いやあ、息子(副社長)が秋葉原の外に支店を持ちたがるんだけど、オレはダメだといってあるんだ」

マサコ夫人が語る。「商売に関しては、ウチの人は地道なコツコツ派ですね。石橋をたたいて渡るほうですよ。よく銀行から、店を大きくするならおカネを貸しますよ、といわれるんですけど、ウチの人は耳をかさないんですよ」

地道というより、当方には、秋葉原で骨を埋めたい、外には出たくない、というのがこの七十一歳好々爺の信条のようにみえる。つまり、秋葉原一筋の会長なのである。

志村の一日は朝七時の起床からスタート。自宅(湯島)から十五分ほど歩くと店につく。会合がない限りはレジにドンと腰をすえている。「オレは無趣味でね。やるのはゴルフくらいかな。これは十年ほど前に狂って、週二日は行ったね。一日に三ラウンドやったなんてこともあるよ。今は月二回のペース、おかげて病気知らずだよ。」

酒は「五十歳のころまでは、いつ帰ったのかわからないくらいまで飲んだ。」そうだが、現在はビール一本程度。テレビでよく見るのは「チャンバラもの。最近の若いのがやる、くっついたの、はなれたのというのは苦手だな。」

ところで、秋葉原の当面の大問題は、スーパーの家電への進出である。が、この電気街の”カジ取り”氏は、「スーパーというのは安い目玉があっても、品物がズラッとなんでも揃うわけじゃない。その点、秋葉原は世界中の商品が並んでますよ。各メーカーの新製品開発者がここにきていろんな部品を買い集めるくらいですからね。それに、各メーカーとも新製品を開発するたびに、まず秋葉原で試験的に売ってみて動向をみるんだから。」といって、胸を張る。

電気街一筋に五十年。秋葉原は手塩にかけて育てた愛児、というわけである。いまどきスーパーなどが横から進出しても年季の入れ方がちがうのである。